久留米絣の歴史

久留米絣が誕生したのは、今から二世紀前。福岡県久留米の井上伝によって発明されました。

伝は天明8年(1778)の暮、現在の久留米市通外町の米穀商「橋口屋」こと

平山源蔵の娘として生まれました。

幼少の頃から布を織ることにすぐれ、13才の頃(1801)平常着の斑紋になっていることから、

絣の図柄を考えたといわれています。まるで布の上で舞うあられのような斑点は、

あたかも人工的な柄のように彼女の眼をにうつり、

やがてかすれた感じの柄を持つ織物へと結び付いたのです。

その後、21才の時市内原古賀町の井上次八に嫁ぎ、

二男一女をもうけましたが、28才の時夫を失い、3人の子供をかかえながらこの道に励み、

40才の頃には四百人の弟子を抱え郷土の機業の振興に務めましたが、

明治2年4月26日に82才の高齢で世を去りました。

伝のインスピレーションから生まれた絣の技法は、

多くの人の発明・工夫を得て、さらに奥行きを増します。

なかでも優秀な機織りだった牛島ノシは、久留米絣の代表的な柄とされる小柄の国武絣を考案。

大塚太蔵は織物上で絵や文字を自在に表現しようと研究を重ね、絵絣を考案し、

”からくり儀衛右門”またの名を『東洋のエジソン』と称された田中久重(鞄月ナの創始者)が

機織り機の改良をおこない生産力のアップと共にやがて久留米絣という呼称で

全国に広まり、久留米とその周辺地域は絣の流通の中心地となったのです。

二百年前に少女が抱いた創意工夫の精神は久留米絣に宿り、

こうしたいろんな方々の手や思いを通して現代に

今尚伝え、着実に進化していっています。


『井上伝』の像と『田中久重』の像(福岡県久留米市・五穀神社郷学の森)

五穀神社(福岡県久留米市通外町58−1)

井上伝肖像画 徳雲寺に井上伝のお墓があります